2017年3月20日月曜日

宇土古城 その3

宇土古城のすぐ南には豊福城があります。
この豊福城。名前こそ平和な感じが満載ですが、現実は肥後南部の騒乱の中心地といってもいい場所です。
相良氏と名和氏による激しい争奪戦が行われ、そのたびに城主が変わっています。
いずれ豊福城址も訪れてみたいと思っています。



(2017.3.5 宇土古城本丸に通じる虎口 by α6000 SEL24F18Z  24mm F 4.5 ISO100 1/160)

さて、為光の反乱が呼び水となったのか、その後、前回書いた阿蘇氏の大宮司職をめぐる内紛が激化します。
阿蘇南郷を本拠とする南朝系の惟歳、惟家親子のバックには肥後守護職の菊池重朝がつき、益城矢部を本拠とする阿蘇氏の実権を握る北朝系の惟忠、惟憲親子のバックには相良為続がつきます。
相良氏を頼った為光は相良為続、阿蘇惟忠連合、相良氏と争う名和顕忠は菊池重朝、阿蘇惟歳連合ですが、相良氏の介入の程度は不明です。
文明17年(1485)5月、為光が再び菊池重朝に対抗する兵を挙げます。宇土為光、二度目の反乱です。
二つの勢力の武力衝突が益城矢部に近い「馬門原」という場所で起こり、菊池重朝側が大敗します。(馬門原(幕の平)の戦い)
この混乱に乗じて為光は宇土古城を奪回したのです。
相良氏による八代の領有もほぼ確定します。
また戦いのすぐ後に、阿蘇家の老害、、、じゃなかった実力者、惟家が亡くなります。

八代を得て海への玄関口が開き、菊池家は先の敗戦で著しく権威を失墜しており、阿蘇家は第一人者の惟家が亡くなり、跡継ぎの惟憲は凡庸に見えました。
競争相手の勢力が退潮しており、為続は次のステージに進むことを決意します。それは肥後中央部への勢力拡大でした。

 (2017.3.5 宇土古城本丸(千畳敷) by α6000 SEL24F18Z  24mm F 9.0 ISO100 1/100)


馬門原の戦いの2年後の長享元年(1487)、為続は冒頭に書いた豊福城を奪います。この時の城主は竹崎安清親子だったようです。
竹崎氏が城番だったのか、領有していたのか。豊福城のすぐ南には竹崎氏の領地で、その名もずばりの竹崎城も1kmほど南にあります。
そして明応2年(1493)、菊池重朝が急死し、その混乱の中で相良為継は豊福城からさらに北上し、隈庄城を奪います。
隈庄城は前回書いた木原城のすぐ東、1kmほどのところにあります。(旧城南町役場 現熊本市城南総合支所付近)
至近の宇土為光老人がその支援をしたのかどうか。。。。
為続に「菊池家当主の座に付かせる地ならし」とかなんとかいって、言いくるめられたのでしょうか。
しかし、新たに当主になった武運は若いくせに(当主相続時12歳)恐ろしく戦上手でした。
当主になって6年。明応8年(1499)に武運は相良氏に対して反撃の兵を挙げます。
3月に豊福城外で相良勢と激突し、これを破り、その足で八代の古麓城を包囲。猛攻の末にこれを落としています。なんという電撃戦でしょうか。
為続は人吉に逼塞。名和顕忠は八代に復帰。15年ぶりの復帰です。
為続は家督を嫡子長毎に譲って、失意のまま翌年死去します。
驕れる者久しからず。
 


 (2017.3.5 本丸(千畳敷)から三城を望む by α6000 SEL24F18Z  24mm F 8.0 ISO100 1/80)




2017年3月15日水曜日

ガソリン、たっか!

会社から帰宅途中に航続可能距離がゼロだったので、ヒーヒー言いながら自宅近くのセルフGSに駆け込みました。
いつものよう画面を選択していると、
ハイオク 144円って、 うぉっ!高っ!!
前回給油が2/25なんですが、133円でした。いっきに11円も値上がりしちょる。
石油元売の陰謀としか思えません。
なぜなら、世界に眼を向ければ、昨年12月以降、原油価格(WTI先物)は、べたーっと53ドル台でほぼ固定されてました。3ヶ月間それが続いて、先週末なんて48ドル台に下げているんです。


↓はWTI原油先物、日足チャート



ここにきて、ガソリン価格が上がる要素が一つもない。不当に価格吊り上げが起こっているとしか、考えられない。

江戸時代は米騒動でしたが、昭和平成はオイルショックにオイル騒動ですかね。
・・・ったく、本当に暴動が起きるぞ。

2017年3月14日火曜日

宇土古城 その2


(2017.3.5 宇土古城 by α6000 SEL24F18Z  24mm F 9.0 ISO100 1/100)

宇土為光の生年は不明ですが、長兄の為邦(永享2年生)が16歳で家督を継いでいることから少なくとも永享年間に生まれていると考えられます。
父持朝が彼を宇土家に送り込んだのは菊池総領家の勢力拡大のためでしたが、為光はこの意に沿うことなく菊池総領家に楯突きます。
初めは文明16年(1484年)、これまた野心の塊とも言っていい人吉の相良為続と結びつき、長兄為邦の後を継いだ甥の重朝に対して叛旗をあげます。このときはまだ長兄為邦は出家隠居の身ながら存命です。この反乱の2年後に58歳で亡くなります。
仮に為光が永享年間に生まれているとしたら歳は40から50歳です。
歳が若ければ、野心たくましい相良為続に唆されたと想像されますが、為続はこの時38歳。
為光のほうが年長であることは間違いなく、この文明年間の宇土の乱は為光自身が画策したと思われます。
宇土為光自身の画策説の根拠は他にもあります。

実はこの年の3月に相良為続は相良氏念願の古麓城(八代)を、名和氏から奪います。
この頃の名和氏当主は名和顕忠と言いますが、この年の年齢は33歳くらい。(生年が享徳元年(1452年)となっています。八代を追われた彼は益城矢部の阿蘇氏の元に逃げ込みます。
阿蘇氏と宇土氏はかなり古い昔から、郡浦と呼ばれる宇土半島の領地を巡って争いがありました。郡浦はもともとは阿蘇神社の社領だったのですが、南北朝の時代に宇土氏が押領して以降、争いの種になっていたのです。
ついでに言うと、この頃の阿蘇氏は一枚岩ではなく、南北朝時代のしこりが残っていて、南朝系(阿蘇郡支配)の阿蘇惟歳、北朝系(益城郡支配)の阿蘇惟忠がおり、さかのぼること30年前に惟忠が惟歳を養子にすることで両家の統合が成った、はずでした。ですが、文明16年頃には、惟忠は実子惟憲と組んで養子惟歳と対立しています。
惟忠、御歳70。老害といっては失礼ですが、そういった類の匂いを感じます。

この頃の阿蘇氏の事実上の実力者といえば益城郡矢部の阿蘇惟忠に間違いないので、八代から逃げてきた名和顕忠の逃げ込み先は地理的にも近い矢部阿蘇氏になるでしょう。
名和顕忠は逃亡先の阿蘇氏の元から、肥後守護である菊池重朝に相良氏による八代強奪の非を訴えたはずです。
阿蘇惟忠はこの時、名和氏と同じような境遇であると、郡浦の件を菊池重朝に訴えたのかもしれません。
相良氏による、八代の強奪。
宇土氏による、郡浦の押領。
肥後守護職の菊池重朝としてはこれらの「無道」を正す役目がありました。
それに反発する相良宇土連合という図式。
この少し前には都で応仁の乱が起こっており、将軍足利義政は政治への熱意を失って東山に銀閣寺を造営し始めた頃です。各地に戦乱が広がりつつある時代でした。
一方で、この年の2年前、菊池氏の本拠地である隈府(今の菊池市)で、重朝は「連歌一万句の会」を開いています。
宇土為光にとって甥である重朝は文弱の徒、と映っていたのではないでしょうか。
本来は菊池総領家の勢力拡大のための宇土家であり為光であるはずでした。その宇土家が栄えることは菊池家のためにもなるはずなのに、肥後守護の権威を嵩に阿蘇氏の言い分だけ聞いて身内の宇土家に向かって郡浦を返上せよとは何事か! 為光は憤りを感じ、先制攻撃あるのみと、相良氏と結んで菊池総領家への反乱を企てたのではないか、というのがもう一つの理由です。
ひょっとすると、文弱の重朝に菊池総領家は任せられぬ、我こそが菊池総領家を継ぐに足る、と言う野望が少しはあったのだろうと思います。

そして4月、宇土為光挙兵。

益城郡木原城下の赤熊(後に明熊)で菊池軍と宇土軍が戦います。(赤熊の戦い)
戦いの詳細は分かりませんが、結果は宇土軍の敗北。
宇土古城から見ると木原城のあった山は目と鼻の先(今は熊本市南区富合町木原字城山)。


(2017.3.5 宇土古城から木原城の城山の眺め by α6000 SEL24F18Z  24mm F 5.6 ISO100 1/200)

今は明熊(みんくま)というバス停が、上の写真の山向こうにある木原城のすぐ近くにあります。
敗れた宇土為光は南の相良領へと逃げ込んだそうです。
さて、この乱の後、宇土城は誰の手に渡ったんでしょうか。調べてはいるのですが、まだ不明です。
しかし、この翌年に行われたある戦いで菊池軍は大敗し、為光は宇土城を奪回するのです。


(2017.3.5 宇土古城から南側の眺め by α6000 SEL24F18Z  24mm F 9.0 ISO100 1/100)


(つづく。)

2017年3月13日月曜日

宇土古城 その1

先日、宇土に行ってきました。
目指したのは「宇土古城」
宇土には、小西行長由来の宇土城と、それ以前にあった宇土城があります。
後者が「宇土古城」と呼ばれています。


(2017.3.5 宇土古城 遠景 by α6000 SEL24F18Z  24mm F 11 ISO100 1/125)

この宇土古城を築城したのは紀姓宇土氏で築城年代は平安時代らしいです。
城跡にあった案内板によれば永承3年(西暦1048年)に造られたとありますから、随分と古いです。また、そんな時代に城郭が必要だったのでしょうか。
1048年というと当時のミカドは後冷泉。1051年には東北で前九年の役が起こりますが、それ以外で大きなイベントは見当たりません。
もう100年ほど時代が下れば、鎮西為朝伝説に見られるような地方武士団の勃興に伴う小競り合いが始まりますが、宇土古城が築城された時代は特に目立った事跡は見当たりません。

恐らく当時は城というよりも、何か権威を示す館としての役割を持っていたか、ちょうど荘園が発達していた時代なので、荘園主の財力の豊かさの証なのかもしれません。
しかしその後、紀姓宇土氏は衰退。代わって、肥後守護の菊池氏から宇土を名乗る者が現れます。
この菊池宇土氏で有名なのが、戦国時代初期に現れた宇土為光です。
彼は菊池家19代当主菊池持朝の子(4男?)です。
父親の持朝は菊池宗家の勢力拡大のため、息子を有力家臣の宇土氏に送り込みますが、これが後に菊池本家を揺るがす大乱の種となります。

(つづく)

2017年3月7日火曜日

ムーアの法則は遅滞している、なんて嘘。

今朝の寒さはたいしたことはありませんでしたが、先ほど帰宅した時の夜の寒さは久しぶりの冷えでした。
寒い!
路面も濡れていて、気付かぬ間に降雨があったようです。
さすがにこの時期、この濡れた路面が朝までに凍ることは無いでしょうけど、凍るんじゃないかと思わせるような寒さです。

さて本題。
ここ一ヶ月、テック関連のニュースやブログを見ていて感じたのは、デバイスの微細化のスピードはちっとも緩まってない、ということ。
ムーアの法則は遅滞している、なんて嘘。
そういった関連のニュース見出しを並べると、下のようになります。
  • Micron、2017年中に1Xnm DRAMや64層3D NANDを出荷 2/6
  • 64層の3D NAND技術で512Gbitの大容量データをシングルダイに収容 2/8
  • TSMCがISSCCで5nmプロセスまでのプロセス技術を展望 2/8
  • IBMがPower9を、MediaTekが10nm版モバイルSoCをISSCCで発表 2/9
  • 次世代モバイルを実現する7nmのSRAM技術をTSMCとSamsungが公表 2/16
 tsmcの発表を見ると、微細化に至る幾つもある壁の一つ、EUVの実用化はそろそろ具体的になってきたように思います。
これらの記事に、こんな締めくくりがありましたが、まあこれまで何度も言われてきたことですが、この先も何度も言われ続けるんでしょうね。
『加工技術を微細化したからといってそのままロジックやSRAMなどの密度が上がるわけではない。必ずと言って良いほど問題が発生し解決策を考案する必要がある。その繰り返しにより最先端の半導体チップは具現化されているのだ。』
NANDフラッシュは巷では品不足が続いているようです。
今年の夏前までタイトな状態が続くと言う予想がありますが、今年いっぱいは厳しい、と見る向きもあります。
フラッシュメモリー関連のニュースでは、
  • HDD世界出荷台数は過去6年で約3分の2に減少 2/21
  • SSD世界出荷台数は過去6年で約12倍に急成長 2/23
やはりSSD需要が激しいんですね。記事の中には、
「SSDの出荷台数とHDDの出荷台数の比率(SSD/HDD)は2010年にはわずか1%に過ぎなかった。それが2016年には、25%に達している。出荷金額の比率はもっと近く、47%に達した。」
とありました。HDDも少しは残るでしょうけど、昔の磁気テープ的な存在になっていくように思います。
それ以外で眼を引いたのは、先月上旬に発表されたソニーの記事、
  • ソニー、3層構造のスマートフォン向けCMOSセンサを開発 2/7
  • ソニー、フルHDで1,000fpsの撮影ができるスマホ向けCMOSイメージセンサー 2/7
データバッファーを併せ持ったセンサーと言うと、今までもあったんじゃないかと思うのですが、上の見出しにもあるように、フルHDで1000fpsを可能にしている、というところがミソなんでしょうね。
これまでにない、巨大画像データ処理が可能になっているということです。
ますますスマホや監視カメラといった小型機器でも高精細な画像や動画撮影の幅が広がっていきます。
すごいと言うか、恐ろしいというか。
下の2社は確か特許争いを通じて手を組んだんでしたね。
  • SK Hynixと東芝が共同開発した4Gbitの大容量STT-MRAM 2/9
NANDフラッシュの次を模索する動きは他にもありますが、上も含めてまだまだ決定打にかけます。
中国関連では、
  • GLOBALFOUNDRIES、中国・成都に半導体工場を建設
「中国では成都市とパートナーシップを結び、22FDXの世界的な需要加速に対応するため300mmの新工場を建設する予定としている。同工場では2018年にメインストリームプロセスの生産を開始し、その後2019年に量産開始予定の22FDXプロセスの製造に注力する計画。」
先端の工場がどんどん内陸に向かっていくのも中国政府の差し金です。(苦笑
この先数年は工場乱立が続くようです。しかし、14億人近い人がいる国なのに、恐ろしいほどの人手不足。
建設無双といってもいい状態で、そして船頭(部長クラス)は無駄にいっぱい居ます(用意されています)が、現場のエンジニアや彼らを引っ張る現場リーダークラスの数は極端に密度が薄いように感じます。
ハビタブルゾーンの惑星を探すくらい厳しいかも。
 

2017年3月6日月曜日

且過瀬の戦い(1580年)

現代の谷尾崎の梅から奈良時代の味生池の池上へ、そして甲斐宗運に池上の地を与えられるきっかけとなった戦国時代白川且過瀬の戦いへ。。。

味生池(あじうのいけ)はその後、加藤清正によって埋め立てられ新田になったらしいのですが、埋め立てられる前にはかなり小さくなっていたのではないか、と思われます。
それはさておき、その味生池のあった池上の話。
清正が入国する前の肥後は豊後の大友氏や肥前の龍造寺氏、薩摩の島津氏が争い、その勢力下に収めていましたが、さらにそれ以前となると肥後守護の菊池氏、阿蘇神社大宮司の阿蘇氏、人吉の相良氏のそれぞれが肥後国内で勢力拡大を狙っていました。
もっと言うと、彼らの家臣クラスの国人衆もそれなりに力を持って威張っていた時代がありました。
阿蘇氏18代目の当主は阿蘇惟豊で、前半生は欲深でやんちゃな兄に翻弄され散々苦労します。
彼が兄に追われて山向こうの日向国に落ち延びているとき、救ってくれたのが日向の国人甲斐氏でした。
惟豊は甲斐親宣の補佐を受け永正14年(1517年)阿蘇氏当主に返り咲くのですが、この甲斐氏で有名な武将が親宣の息子、甲斐親直です。(ちなみに永正14年は、織田信長の父親信秀が8歳、北条氏康は3歳、今川義元が生まれるのはこの2年後、武田信玄は4年後に生まれます。そんな時代の話。)
この甲斐親直の歴史に池上の地名が現れます。
時代は下って天正年間。肥後は近隣有力大名(大友氏、竜造寺氏、島津氏)の代理戦争の真っ只中にありました。
一時は大友氏の影響が強かったのですが、天正6年(1578年)に日向耳川で大友氏と島津氏の戦いがあり、大友氏が大敗をしたため、逆に勢いを増す龍造寺氏や島津氏の勢力に鞍替えし、大友氏から離れていく肥後国人衆が少なくなかったのです。
阿蘇氏は領地が地理的に豊後に近いからか、斜陽色濃いとはいえ豊後の名門は一戦の敗北では倒れがたしと見たか、理由は定かではありませんが、大友氏の元に留まることを選択します。
この判断に大きく影響したのは阿蘇家の筆頭家老甲斐親直の意見でした。
天正8年3月から4月にかけて、阿蘇氏領を狙って肥後国人衆大友離脱組の攻撃が始まります。
離脱組としては、阿蘇氏を攻撃してもそのバックにいる大友氏の支援はない、つまり阿蘇の領地は切り取り次第、という計算が働いたに違いありません。まさに戦国。まさに弱肉強食。
甲斐親直は、当時は出家して「宗運」と名乗っていますが、この離脱組の軍勢と白川且過瀬(現在の世安橋付近)で戦い、これを見事に破って敗走させています。
この軍功に対して、時の大友家当主義統(バカ息子)は飽田郡池上村を宗運に与えた、と伝えられています。
池上と甲斐親直が結びつくなんて、びっくりです。
ちなみに甲斐親直の居城は、上益城郡御船の御船城です。池上からはずいぶん遠い、、、

この戦いはデキレースのような色合いを感じます。
甲斐親直は歴戦のツワモノで、戦いの数は数多くありますが、ほぼ負け知らず。
ここぞと言う戦いでは、追い散らすだけではなく敵の首を数多く取って勝利したことが記録に残っています。
白川且過瀬は敵の武将の一人、城親賢の居城である隈本城(熊本古城)に近く、混乱の中で追い詰めれば隈本城も奪えたのではないかと思うのですが、この戦いで主だった敵側武将は一人も戦死していないようです。
このあたりが、代理戦争と割り切って出来レースを演じたのではないか、と思わせるわけです。
しかし、戦いとは勝ちすぎても益が無いと言いますから(孫子)、真実は阿蘇の威を見せるだけで十分とした宗運の引き際の良さなんでしょうけどね。

合戦地の白川且過瀬があったとされる世安橋から、城親賢の居城、隈本城があった古城町の第一高校までは、現代の道で徒歩30分。


上の地図では左側に甲斐宗運が与えられた池上付近があり、花岡山を挟んで右に且過瀬があります。

2017年3月5日日曜日

道君首名

今月のTOP画像は谷尾崎の梅です。

谷尾崎、百梅園、これらは熊本市の西部にあります。
自分は県外出身者なので知りませんでしたが、熊本(肥後)の歴史はてっきり東部や北部、つまりは菊池付近や山鹿付近が古く、そこから西や南に広がっていったのだと勘違いしていました。
そういう考え方でいくと、島崎とか川尻とかは新興開拓地のような印象だったわけです。
しかし、意外なことにこの島崎付近も歴史が古いことがわかりました。

谷尾崎から南、独鈷山よりは北のあたりには大きな池があったそうです。
今でも地名に「池上」などと残っています。
この池は、実は人工の池であり、古代、筑後守兼肥後守となった道君首名が作った「味生池」がそれであるようです。
この、道君首名。
みちのきみのおびとな、と読みます。
西暦713年、和銅6年に初代肥後国司となり、味生池など灌漑事業を興し多くの人々の暮らしを豊かにするように尽力したことが記録に残っています。
なんと、まだ平安の世が来る前から熊本市西部が開発の最前線だったとは。
道君首名の灌漑事業は、やがて肥後を九州で唯一の「大国」にしたと言って良いでしょう。

2017年3月4日土曜日

唯々諾々

3月になりました。月替わり恒例、TOP画像の変更を行っています。

安倍君はそろそろ末期じゃないでしょうか。
ただ、そう望んでいるのは、今の日本では少数でしかないようです。
森友学園の例は氷山の一角だと思います。その背後にちらつく「日本会議」なる怪しげな団体こそが、今の日本をダメな方向に誘い出している大元のように思います。
安倍君もその手先でしかない。
「日本会議」と言う言葉が徹底して表に出ないようにしているのも気味が悪い。
それを今の日本のマスコミに期待しても無理でしょう。
日本人はいまいち自覚が薄いですが、情報統制下にあります。報道の自由度は世界の中でもかなり悪い部類の国の一つです。
隣の北の国のことを言ってられないよ?
日本人はその国民性が、「唯々諾々」
従ってしまうからな。

本当に、いかんなあ。